劇場修行(1)十年くらい出かけていた
石神夏希 2023.02.07

もう去年のことになるのだけれど、久しぶりに劇場作品を演出した。
っと、さらっと書いたが、2012年以来だったので、丸十年ぶりになる。
その十年間、何をしていたかといえば「劇場の外」で作品をつくっていた。それは劇場という「建物」の外でもあったし、劇場という「業界」や「制度」の外でもあった。その頃すでに劇団で十年以上、演劇少女時代を入れたら二十年近く劇場に浸っていたわたしは、二十代前半のささやかな成功体験と二十代後半のひどいスランプを経て、じぶんの居場所だったはずのその場所がだんだん息苦しくなってきて、とにかく「ここではないどこか」に逃げ出したくて仕方なかった。
その重力から逃れたい、その目の届かないところに隠れて思いきり好きなようにやりたい。そんな気持ちで、東京から離れた土地でじぶんたちで企画を立ち上げたり、できるだけ演劇の「え」の字も思わないような人たちの中に飛び込んでいっしょに演劇をつくったり、という地道な活動をひたすらマイペースに続けた。そういった活動を始めた数年間は、周囲から「演劇をやめた人」だと思われていたことを後で知った。実際、「外に出たい」というよりは「誰にも見られたくない」という雲隠れに近いモチベーションだったと思う。
劇場の外へ出てわたしが出会ったのは、たいへん素朴な成り行きだが「まち」という場所だった。劇場という建物はたいていまちの中にあるけれど、こんなにも「まち」と「劇場」が遠い場所だとは知らなかった。もっとも遠い場所はすぐ隣りにあったのだ。
不動産オーナーさんとか、商売をしている人とか、地域のお祭を仕切っている人たちとか、まちを生きたものに保っているひとたちが、わたしのコラボレーターであり師だった。そういった人たちと「演劇」を介して出会い、対峙し、揉まれているうちに、劇場という建物もまた不動産であることや、人の感情が土地の値段を決めていること、その積み重ねがまちの風景を形づくっている、といったことを学んだ。それはアーティストらしからぬ学びかもしれないけれど、じぶんたちが暮らしているこの社会がどんなふうにできているか、目を開かせてくれるような体験だった。誰よりもわたし自身が劇場の中に閉じこもって、扉の外の世界について何ひとつ知ろうとせずに暮らしてきたのかもしれなかった。
と同時にわたしはまちで、常にゼロから「じぶんがやりたい演劇とはこういうものだ」と説明する必要に迫られた。目の前にいる人たちがわたしに繰り返し問い続けてくれたおかげで、わたしはわたしなりに「じぶんの指針となる言葉」を見つけることができたように思う。
そんな活動を続けているうちに、細々とではあるが、だんだんと海外の社会実験的な志向性が強い芸術祭とか、Performing ArtsよりはParformance Artの文脈に近い人たちとの関わりが増えてきた。そのような場では、じぶんが面白いと思うことに共感してくれる仲間に次々出会って、胸が熱くなった。「まち」という場所はそこで演劇を立ち上げるこだわるわたしにとって本当にアウェイで、それはひとりが好きなじぶんの性に合っていたけれど、ときどき、さすがに孤独が過ぎた。日本国内よりは海外の人が多かったが、つたない英語でもかゆいところに手が届くように話の通じる仲間たちと出会って、どれだけ励まされたかわからない。
そんなふうに「劇場の外」に小さいながらもじぶんなりの足の置き場が見つかり、そういったテーマのトークとか講座などに呼んでいただく機会も増え、一応「これで食っている」と言える状態になっていた頃。ひょんなことからSPAC-静岡舞台芸術センター の芸術監督・宮城聰さんから、劇場で古典を演出するお話をいただいた。
与えられたお題は利賀村と静岡の舞台芸術公園(どちらも自然豊かな環境に包まれた劇場・稽古場施設)で三島由紀夫を上演する、というもの。この十年間でなんとか身につけた得意技がまったく通用せず、素人同然の再スタートになることは目に見えている。水着でいつでも飛び込める準備をしていたら急に「山でスキーだよ」と言われたような気持ちで、呆然としてしまった。けれども、不意打ちすぎて、なんだか面白くなってしまった。考えてみれば、じぶんが想像もしなかったチャレンジや変化がどこかから降ってくる(もらえる)なんて、こんなに楽しいことはない。それで、じぶんが本当にできるかどうか確信がないまま、つい「やります」と答えてしまった。
つづく(たぶん)