野口整体の春
石神夏希 2022.04.27
子どもが一歳児のクラスに上がったのと同時に、保育園の帰り道は歩いて帰ってくることにした。
さすがに全部歩くのは無理なので、半分以上は抱っこになる。なのだけど本人の中で立ち寄りポイントがあり、そこでは「降りたい」と要求する。もちろん日によって気分も疲れ具合も違うから、帰り道の行動は毎日違う。
ところで私は野口整体の「ファン」である。会ったこともない野口晴哉氏を勝手に「野口先生」と呼んでいる。著書を繰り返しめくっては、氏の言葉を飴をしゃぶるように一人ひっそり楽しんでいる。2年前に静岡に越してくる前は、横浜のとある先生のところへ通って5年間ほど個人指導を受けていた。その間、公私ともにかなりいろいろな変化があった。最終的には突風にさらわれるようにして静岡に転居し、そしてすぐ身ごもった。コロナ禍が始まったばかりで移動しづらかったのも大きいが、ひとまずの区切りがついた気がして、それきり横浜へは行っていない。
何が言いたいかというと、私の趣味は今のところ(子どもの世話と仕事のすきまに)黙々と野口整体に思いを巡らせることくらいだ。そして子どもが歩くようになって、つまり自分の意思を行動で示しやすくなって、この子がどんなからだなのか、という情報量がすごく増えた。どんなふうに立って、どんなふうに歩くか、立ち止まるか、ためらうか、手を伸ばすのか……
そうやって子どもを観察しているつもりが、いつの間にか、子どものからだの中に、自分自身の立ちかた、歩きかたを見ていることがある。と同時にそこには夫から受け継いだであろう別の個性、ようするに他者の身体性が共存し混ざり合っていて、全体ではたしかに別の個性を持ったからだになっているのがおもしろい。そんな子どものからだを見ながら、「似ているところもあるけど、違うところもあって、やっぱり他人なんだなあ」という、あたりまえのことを思っている。春。