アンパンマンを歌いまくっている
石神夏希 2022.11.01
私は歌いながらでないと、家事や子どもの世話ができないたちである。
昔は農作業や手作業をしながらみんなで歌った、というのはとてもよくわかる。歌っていると作業もはかどるし、つらいときもなんとか手を動かし続けられるからふしぎだ。そんなとき、歌というものは「聴く」以上にやはり自分の心を慰めるために「歌う」ものだ、と思う。
子育ての手引などには、よく「お腹にいるときからたくさん話しかけましょう」と書いてある。でも子どもが生まれたばかりのころは特に、リアクションが乏しいのに話しかけ続けることが難しくて、かといって黙っているのもなあ、と歌いまくっていた。
でも最近は、歌っていると子どもに「ナイナイ(=やめて)」と止められる。なにかと思えば自分(子ども)の好きな歌をうたえということで
「しゃんしゃん(=アンパンマンの『サンサンたいそう』)」
「ぱんちゅ(=『鬼のパンツ』)」
「とんとん(=『トントントントンひげじいさん』ていうかタイトルだとしたら長すぎ、正式名称はなんだろう)」
という具合にリクエストされる。わたしの好きな歌と子どもの好きな歌を、同時に歌うことはできないので、結果として子どもの好きな歌を歌うことになる。
妙な話だが、家族というのは暮らしの単位がひとりではなくなることなのだと、そんなとき実感する。夫とふたりで暮らしているときだって、協力しあって生活はしていても、自律した「わたしの暮らし」というものはあった。「ふたり」は、いつだって「ひとり」と「ひとり」に切り離しが可能だった。でも子どもがいる生活は、そうではない。自分の暮らしと子どもの暮らしが息の合った二人羽織みたいになってないと何もできなくて、というか自由すぎる子どもの後ろで羽織にもぐって前も見えずアワアワと手を動かしている感覚だ。そして終わりがない。ようするに、ひとりの空間も、ひとりの時間もない。「わたしの暮らし」というものは、どこかに行ってしまった。たぶん夫もそう。
音楽っていうのは時間も空間も共有できる・逆にいえば共有せざるを得ない。だからこそ「自由」とか「権力」といったものに深く関わっている。その空間でどんな音楽をかけるか、そこで誰と一緒にいられるのか、いつまで一緒にいられるのか、扉は開いているのか閉まっているのか。それは、演劇の上演というものあるいは「劇場」についても、ほとんど同じことがいえると思う。いっけん劇場という場所は特殊に感じられるけど、実はそうじゃなくって、わたしたちの日常全体にわりとそういう時間なり空間がたくさん存在しているんじゃないのかな? 細切れか、もしくはわたしたちには見えないくらい巨大なかたちで。
「もっかい」という子どものリクエストにこたえてアンパンマンをなんどもなんども歌いながら、そんなことをぼんやり考える。